2013/12
異色の女子教育者 下田歌子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ14]
岩村を訪ねる
 JR中央線の恵那駅から明智鉄道に乗換えた。1両のローカル電車は秋の行楽客で満員であった。
 岩村駅に降りると古い町並みが連なっている。城下町と云うよりも街道の宿場町のような雰囲気で、道の両側に商家が軒を連ねている。この町並みが約1キロ続き、そこから少し先の岩村城への登山口に岩村藩校知新館の長屋門、太鼓櫓がある。
 この辺りは藩主の館があったところで、歴史資料館がある。藩の歴史資料に加えて岩村出身の有名人として下田歌子と佐藤一斉の展示コーナーはある。
 岩村城は日本三大山城の一つといわれ、傾斜のきつい石畳の道を登っていくと「下田歌子生誕の地」と書かれた石碑と下田歌子顕彰碑があり、歌子が父の書斎で勉学に励んだ「下田歌子勉学所」の建物が復元保存されている。勉学所の庭には平成15年に建てられた下田歌子の胸像があった。

新時代のパイオニアたち
 下田歌子と津田梅子は女子教育の先駆者として、「人物近代女性史」(瀬戸内晴美編 講談社)と「人物日本の女性史−教育・文学の黎明」(円地文子監修 集英社)の、どちらにも登場する。
 下田歌子については最初の本の副題が「妖女か才女か 謎と艶名につつまれた宮廷の花」とあり、「科学技術の旅」で取り上げるか否か多少迷いがある。しかし、当時の女子教育の多くが海外から支援されたキリスト教主義の教育が主流である中で、下田歌子は独自の視点で進めた女子教育の先駆者として特異な存在である。


美濃の国から宮中へ
 美濃の国岩村藩は徳川家につながる松平家を藩主とする。幕府の要職を勤め、学問を奨励した。下田歌子は藩士平尾家の出身で1854年に生まれた。幼名は鉐(せき)。
 平尾家は代々儒学者であり、曽祖父は藩校知新館の教授職であった。祖父は婿養子で勤皇学者、父鍒蔵も祖父の影響下にあったことから佐幕派の批判にあい、蟄居・幽閉の生活を強いられた。平尾鉐は幼くして父から漢籍・四書五経を学び、和歌・俳句や国文学を嗜む頭脳明晰な子供であった。男子が藩校で学ぶのに女子には勉学の機会が与えられないのを不満に思い、家の蔵書を独学で読み漁る少女であったという。
 以前は宮中の女官は公家大名の子女であったものが、明治維新後藩士の子女も採用されるようになった。彼女の和歌の師匠は有名な八田知紀であり、その弟子の高崎正風が宮中御歌所長であったことから、平尾鉐は高崎の推薦で明治5年に19歳で宮中の女官に採用された。
 和歌の才能が優れた鉐は女官の最下級で有りながら皇后の相手役に引き上げられ、「歌子」の名前を頂いた。明治6年には宮内庁御書物掛を命じられている。26歳で女官を退官するまでの7年間を皇后に可愛がられ、反面同僚からは厳しく当たられて苦労も多かったようである。退官後、父親の決めた下田猛雄と結婚した。


女子教育に関わる
 明治8年に開校した女子高等師範の開校式に皇后の行啓があり、平尾鉐はお供に加わった。皇后は度々女高師に行幸されたので、平尾鉐はこの頃から伊藤博文や山県有朋、井上馨など政府高官たちとの面識を得た。
 学識豊かでありながら家庭人となった下田歌子を、伊藤や山県が惜しんで女子教育の私塾を開かせた。当初は政府高官の夫人や子女の教育であったが、明治15年に桃夭女塾として認可されて4年制の女学校となった。学科は修身、漢文、習字、歴史、裁縫などで、伊藤博文の紹介で津田梅子が英語の教師として加わった。下田歌子は得意の源氏物語を講義した。
 明治17年に下田歌子は宮内省御用掛に抜擢されて、華族女学校創設準備に加わった。明治18年(1885年)に華族女学校が開校すると、下田歌子は学監となって学校の運営と教授職を兼ねた。下田歌子32歳であった。私塾桃夭女塾は廃校となり、生徒たちは華族女学校へと入学したので、華族女学校の生徒数は約140名であった。
 校長の谷干城が農商務大臣になってからは校長の事務代行を務めた。さらに「和文教科書」や「小学読本」などの教科書の編纂も行っている。


ヨーロッパ視察旅行
 下田歌子は明治天皇の側近佐々木高行の推薦で、内親王の教育係を引き受けることになった。明治26年にイギリス王室の教育や欧米各国の女子教育調査のため、華族女学校在籍のまま出張を命じられた。ロンドンに滞在して先ず英語の勉強をし、私立の女学校にも通った。歌子は念願のビクトリア女王会見を果たし、女子教育の実態をつぶさに観察した。ビクトリア女王の孫娘たちが一般の生徒と一緒の教室で勉強しているのに驚いたという。
 やがて上流階級以外の女子教育の重要性や、「知育・徳育」以外に「体育」の必要性を痛感し、約2年間の欧米滞在後にフランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・アメリカを経由して帰国した。
 帰国後は華族女学校学監に復帰し、内親王教育掛も続けた。欧米滞在中の見聞録は、調査報告「欧米二洲女子教育実況概要」のほか著書「泰西婦女風俗」などに纏められている。


実践女学校設立
 欧米視察で女子の教育の重要性を認識し、特に中流以下の大衆婦人の教育が真に国家興隆の基であるとして明治31年に帝国婦人協会を設立した。この協会は教育、出版、女工養成、勧工場、看護婦養成など大規模な構想でスタートしたようだ。教育としては実践女学校の設立であり、その他は女子の職業訓練所であったが、成功して現在まで継続しているのは女学校である。
 現在の実践女子学園は女子中学高校から女子大学、短期大学、大学院まであり、2019年(平成31年)に創立120周年を迎える。実践女子大学のホームページによると「学祖下田歌子による“社会を作るのは女性である”との理念を受け継ぎ、発展させるため“女子教育の更なる充実による社会への寄与”を目指す」と示されている。
 下田歌子の評価は皇室中心主義、国家主義的であり、西欧のヒューマニズムは持ち帰らなかったともいわれ、女子の教育は良妻賢母教育であった。
 しかしこの間も華族女学校学監、華族女学校が学習院に併合されて学習院女子部長を務め、23年間勤めて明治40年に辞任した。実践女子学園の方は昭和11年に83歳で亡くなるまで校長を務めた。明治15年(1882年)に桃夭女塾をスタートしてから54年間、生涯の大半を女子教育に捧げた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)





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